「おー、西の坊(ぼん)が来たぞー、せつこー。西の坊(ぼん)が遊びに来たぞー」背戸口のいつもの定位置に座っていた、ぶんじろうはんは、生垣に囲まれた大きな家屋敷の入り口から、小走りで屋敷内へ私が入って来るやいなや、そう言って、自分の孫娘である「せっちゃん」に呼びかけた。ぶんじろうはんは、名が文治郎。村の長老でもあった。日露戦争に出征した経験があり、多くの戦果を上げたらしく勲章をたくさんもらっていた。大きな家屋敷には前栽、池がありその池のほとりには、日露戦争の戦果を称える、ぶんじろうはんの石像も立っていた。私がまだ、幼稚園にも入っていない幼小の頃、南北に伸びた谷川沿いの村道を挟んで、私の家屋敷は村道の西側に、ぶんじろうはんの家屋敷は東側に位置していた。就学前の小さかったそのころ、近所の遊び相手として、私はぶんじろうはんの孫娘のせっちゃんを選んで遊んでいたのだった。せっちゃんは、一歳上の女の子。近くに同年代の男子はいなかった。遊びといっても、家の外の庭で地面になにかしら棒切れで線や絵を描いては泥んこになりながら戯れていた。その頃の米農家の農作業は機械化はまだまだの時代で、すべて手作業。秋になると穫り入れた籾を筵の上で天日干しするため、家屋敷周辺の庭には広々とした空き地があり子供達にとっては、その場所が遊び場となっていた。
ぶんじろうはんは、陽当たりの良い背戸口に一日中座っていた。娘のみよさんが入れたお茶と、好物のタバコのキセルだけを傍らに置いて、目の前の広い庭で戯れる孫娘のせっちゃんと私を見守ってくれていた。時々笑みを見せながら優しい目をしていた。当時から約60年前の日露戦争に兵隊として戦っていたことを考えると、ぶんじろうはんは80歳を超えていたはず。時折、上を向いては、昔のことを思い出しては懐かしんでいるようでもあった。正に好々爺ともいうべき、ぶんじろうはんの優しい目を思い起こす度に、幼かったあの頃の時代が蘇ってくるのである。(令和7年12月記)

