小学校時代の私は、いったい毎日何をしていたんだろう、と時々振り返る。勉強なんか
そっちのけで遊びばかりに興じていた時代だった気がする。何も無い時代だったが
日本も高度成長を感じてとっていた時代である。
その頃の私は全く勉強には興味は無かった。試験勉強を家でやった覚えは無いし、決まった自分の机も家にはなかった。 他の同級生も似たり寄ったりだったのであろうが何にも問題はなかった。小学校時代、図画や工作には自信があった。 よく展覧会などには絵も工作も入選したのを記憶している。また男女が同じように家庭科を習った。 裁縫や料理などの実習は何故か面白かった。図画工作と同様に料理や刺繍の実習などで創造的なことに 心が傾いたのかもしれない。 そんな小学校時代に興じたことが「鮎」であった。
村の近くに川が流れている。川幅100mくらいであろうか、 子供の頃はとても大きな川に思えた。ずっと上流に遡ると、山麓の源流まで通じている。 麓には小さな発電所も当時からあった。この川にその当時、夏になると琵琶湖から、 源流に向かって大量に小鮎が遡上してくるのである。もちろんその年々によってその様子は異なっていたが、 多いときは橋桁から川を見下ろすと真っ黒な小鮎の軍団が固まって遡上するのが目撃できた。
鮎の量も水量も今と違って豊富であった。その川の本流だけでなく、そこかしこの小川にもその鮎軍団は遡上してきたのである。
僕たちガキどもは、田んぼの間にあるその小川の石垣の下に素手を突っ込み鮎を手掴みするのである。
ヌルッとしたら大体それは鮎である。小鮎は「若鮎の如くピチピチと」と言うようにとてもすばしっこい。
これを手掴みするにはそれなりにノウハウが必要であったが、
僕たち子供でもそれができるくらい兎に角その鮎量は多かった時代なのである。4年生か5年生の夏休みになると、
毎日学校プールへ行き13時から15時の2時間、水泳に興じていたがその後の時間は、専らその川で「鮎釣り」か、または
「ひっかけ」といって餌なしの掛け針による方法で鮎取りに興じていた。
よくTVなんかで放映される鮎つりは 鮎の縄張り争いの性質を利用した大鮎狙いの「友釣り」であるが、僕たちがそのころやっていた鮎釣りは、 小鮎を毛鉤で釣る方法であり簡単であった。竿なんか裏山の竹薮の竹で十分だった。糸と毛鉤だけを買ってくれば良かった。 一度に、5,6匹が針に掛かったときなどその竿から伝わってくる小鮎のピチピチとした引きの強さは、 子供心にも釣りの醍醐味を教えてくれた。毎日、日が暮れるまで近所の学友と共に熱中していた。
もう一つの、掛け針による「ひっかけ」はもっと面白かった。これは、料理屋にでてくる20cm級の大鮎を狙って、 2mくらいの竿の先端に取り付けた針で引っ掛ける捕まえ方で、水中眼鏡や「のぞき」と呼ばれる川底ののぞき道具を 用いてひたすらその竿の下をかいくぐる大鮎を待つのである。大鮎がその竿の下をかいくぐる、その瞬間に竿を引き、 かえし針で引っ掛けるのである。タイミングは非常にむずかしかった。すばしっこい鮎のことである。そう簡単にはいかなかった。 捕まえると大鮎の引きの強さはこれまた一匹でも強いのでその時はみんな興奮するのである。
この鮎取りを通して友達もできた。小学校の時は学区単位であるので他の学区の学友との交流は殆どなかった。 隣に南学区があり、やはり川が流れている。古戦場も近くにある。時々、学友と共にその南学区の川まで鮎取りの遠征に 自転車でいったことがある。南学区の小学生も中部学区とまったくやることは一緒だった。夏休みなると鮎に熱中していた。
その中にガキ大将的なガマ蛙のような顔をした少し大柄な男の子が一人居た。これが南学区にいたガキ大将のG君
であった。この風貌とともに変わった名前が中部小の学友はすぐに印象付けられた。以後、このG君を通じて、
中部学区と南学区のソフトボール対抗試合などをやったのを記憶している。G君は、南学区の優等生であったらしく、
そのことは中学校に入学して4つの学区が一緒になって判明した。「G君、G君」とその風変わりな名前と風貌で人気者であった。
その後G君とは同じT高校に進学した。自転車通学路が途中まで同じ帰り道であったのでよく連れ立って一緒に帰った。用も無いのに二人で自転車で長浜市街地へぶらつきに行ったり、通学の帰り道途中にあった、うどん屋できつねうどんや素うどんを一緒に食べたことを懐かしく思い出す。
僕の家にも何回か遊びに来たこともあった。僕はこのG君のそのぶっきらぼうな性格がとても魅力的に映った。よく、「地元弁を大事にしなければな」、と折に付け地元弁を使っていた。たとえば、「もう帰ろう」という言葉を地元では「もうげこしよう」という。たぶんこの言葉は、どんな時でもという訳ではなく、寺参りをしてその寺から自宅に帰るときなど上から下へ行くときに「下向」(げこう)するという言葉があるが、そこから出てきたと思われる。その他の言葉として「遠慮するな」という意味のことを「だしかいな」という。また、「おぞましい、気持ち悪い」という意味に「よぞくろしい」という言葉がある。
これらについては語源がわからないが、すべて古語辞典にも時々でてくる由緒有る地元言葉なのだが、G君と僕はあえて折に付けこんな地元弁を使って冗談を言い合っていたのである。G君は高校の成績がもう一つ伸び悩んだのか結局、大学進学せずに就職の道を選んだ。そんな愛すべきG君の突然の訃報を調度夏休み帰省中に受けとったのは僕が大学院の1年生のときだった。工事作業現場でトラックに積まれたブルドーザーが頭の上から落ちてきてその下敷きになるという悲惨な事故に遭ったのである。既に嫁いでいたお姉さんが一人いたが一人息子のG君を失った両親の嘆きの深さは想像に難くなかったが、すぐに僕は地元の学友と共に悔やみに行った。この時はとても悲しくて直ぐ引きあげてきた。この時ほど、人の命の儚さを痛感したときはなかった。
あの屈託の無い、なんとも言えないいたずらっぽい、にやりと笑った顔で「だしかいな!山崎」と僕にジョークを飛ばしていたG君は、 あの鮎取りに興じた時代とともにしっかりと僕の記憶に残っている。合掌。■(平成16年1月ストックホルム出張のホテルで記)