◆「初めての海外ミュンヘン」◆


  山崎発表登壇 初めて海外出張に行ったのはドイツだった。入社8年目の5月、確か連休明けにミュンヘンに行った。同じ職場の中で初めて海外出張に行く時期としては、どちらかというと遅いほうの入社8年目であった。何回かそれまでも行けそうなチャンスはあったのであるが、結局は実現できていなかった。内心、周りの連中がちょくちょくと海外へ行くのを羨ましい気持ちで見て居たことも事実である。上司からICDSC(International Conference on Digital Satellite Communication)という国際会議に論文を提出するように指示されたのはその年の正月明けであった。「今度のこの論文発表には山崎に行ってもらうからな」とその当時言っていた。僕はその論文を英語でなんとか書き上げ提出した。やがて、発表の時期が目前に迫ってきたが、具体的に海外出張の手続きはできていなかった。というのは、その年は会社の業績が悪い年で経費節減のお達しが上部から来ていた。が、上司はなんとか僕を初めての海外出張に行かせてやろうと奔走をしてくれたようだった。その事業所予算ではなく本社などに掛け合い、やっとのことでその海外出張の許可が下りた。それからが大変であった。約20分程度の発表ではあったが、英語でプレゼンテーションを行わねばならない。自費観光も含めて、海外へ一度も行った事のない僕にとって、外国へ行くだけでもう胸が一杯であるにも拘わらず、その英語の発表の20分は当然大きな負担であった。それじゃ、行きたくないのか?と問われるとやはり行ってみたかった。少なくとも一度は海外出張に行って見たいという、何か怖いもの見たさの気持ちと、これまでも先輩同輩後輩と周りの面々が海外によく行っている職場では、まだ行っていないことに少し引け目を感じる気持ちもあり、今度こそは、という気持ちのほうが勝っていたのである。僕は、なんとか約20分間の英語発表シナリオを作成し、半ば丸暗記するような恰好で発表練習を繰り返した。英会話なんか付け焼刃で、短期間に上達するはずも無かった。とにかく20分間をなんとかやり遂げれば良いんだと必死の思いだった。職場の先輩の前で予行演習のプレゼンを見てもらい(実はこの時が一番緊張したのだが)何とか、社内での準備作業はクリアした。

ニュンヘンブルグ城

ところがその後からが大変だった。何せ、遊びも含めて初めての海外旅程であるから、果たしてドイツのミュンヘンまで無事に行けるだろうかとその出発日が近づいてくるにつれて緊張が高まってきたのであった。出発は伊丹の大阪国際空港であった。仕事を一緒にしていた、鎌倉の研究所の先輩であった忠さんも同じ会議で発表することになっていたが、ヒコーキはまったく別であった。ヒコーキのチケットは所謂、格安チケットであった。手配はすべて上司がやってくれたのであるが、僕にとっては何もかも初めてであり、訳が分からなかった。上司の言われるままにその準備を進めていたと記憶している。スーツケースもこの時初めて購入した。パスポートはずっと前に取得していたが、一度もスタンプを押していなかった。さて、出発の朝、僕は、自宅から少し早めにタクシーに乗り伊丹の大阪国際空港まで直行した。空港まで上司が見送りに来ていてくれた。初めての出張で心配していてくれたのであろう。僕は、指定の団体窓口で引換券を渡して、初めてそのフライトのチケットを手にした。上司は、そのチケットを見て、「帰りは、この予定のフライトに必ず乗って帰って来いよ。もし乗り遅れたとしてもこの安物チケットではフライト変更は出来ないからな。」と忠告した。僕はそのことの意味もあまり理解せずにその初めての海外出張のヒコーキに乗り込んだ。

キャリアは英国航空BAだった。したがって、ロンドン、ヒースロー空港経由でミュンヘンへ行く行程だった。ロンドンのヒースロー空港では、同じ仕事をして、その1年ほど前から関連会社のロンドン事務所に勤務していた知原さんという人と落ち会う手筈になっていた。僕より6つくらい先輩の人であった。同じ通信装置の開発をやった人であったが厳密に言えば、会社の先輩ではなく、関連会社に出向していた。でも異国の地で英会話が堪能な知原さんに会えることは僕にとっては、何よりも頼れる存在であった。ヒースローにまで行けば、その知原さんに会える。知原さんに会ってしまえばもう怖いもの無しだ。ミュンヘンまでも問題なくいけるであろう、と期待していた。ミュンヘンの会議場まで到着すれば同じ会社の忠さんも居れば、関係顧客の知人が何人か居るはずだ。とにかく、ロンドンのヒースローまでは独り旅だがそこまで行けばなんとかなる、何とかなると僕は呪文のように心の中で唱えていた。当時は、給油のためアンカレッジに一旦立ち寄って欧州までフライトしていたはずである。BAの中での機内食がこれでもかこれでもかと何回も食事が出されることに辟易しながらロンドンのヒースローに到着した。予め教えられていたようにターミナルビルの中を巡回するバスに乗りミュンヘン行きのヒコーキが出発するターミナルまでなんとか僕は独りで行き着くことができた。

英国公園かも

さあ、後は知原さんに会うだけである。「ミーティングポイント」という場所があるのでそこで落ち会う約束になっていた。しかし、知原さんは現れなかった。時間が経過するにつれて僕は次第にお腹に重い砂袋を詰めたような不安が積もってきた。このまま、知原さんが現れなかったらどうしよう。無事にミュンヘンまで行き着けるであろうか、と心配が心配を呼んだ。暫くそうしながら、知原さんが現れることを期待して待っていたが、やがて意を決して、近くにあるインフォメーションカウンターへ近寄った。そして僕はカウンターの女性に僕の困っている状況を説明した。勿論英語でである。とにかく、たどたどしい英語で「僕は、ミーティングポイントでMr知原と会う約束していたが、彼が来ない。」と何とか伝えた、つもりであった。しかし、なかなか通じていない様子であった。僕は繰り返して何度もその女性に伝えた。この時は、僕は次第になりふりかまわず必死の形相で伝えていたと記憶している。やがて、そのカウンターの女性は「解かった。あなたはMR知原を探しているのね?では場内アナウンスで呼び出してあげよう。」と言ってくれた。僕は「おお、僕の英語も通じるんだな。」と自分ながら感心していた。まさしく「窮すれば通ず。」であった。しかし場内アナウンスにも拘わらず、知原さんはその場所には現れなかった。僕は、もう知原さんが来ることを諦めて、意を決して独りでミュンヘン行きのヒコーキ乗り込んだ。ああ、これでミュンヘンまでも一人旅である。果たしてその国際会議場まで行けるだろうかと心配だった。ロンドンからミュンヘンまでのフライトは2時間も掛からなかったと記憶している。流石、このフライトには日本人らしき人は乗って居なかった。隣に座った人から話しかけられたときもどぎまぎしながら受け答えしたのを記憶している。やがて高度が低くなりミュンヘン上空の近くに来たとき、空から見下ろす緑の平地は鮮やかだった。

知原山崎

ミュンヘン空港に到着してそこからも大変だった。「とにかくタクシー、タクシー」とタクシー乗り場からタクシーに乗り国際会議場である「ミュンヘン・ヒルトンH」へと運転手に告げた。ドイツ語なんか話せるわけがない。単語を並べるだけである。大学時代の第二外国語はドイツ語専攻だったのになんの役にもたっていないな、と自嘲していた。しばらくしてミュンヘン・ヒルトンHへとそのタクシーは僕を運んでくれた。ホテルの玄関で車から荷物を降ろすとチップを運転手にあげなければ、と僕はポケットの小銭をあるったけ運転手に渡した。そうするとその運転手は「ダンケシェン、ダンケシェン、ダンケシェン。」と3回も僕に礼を言った。きっとチップの額としては法外な額を差し上げてしまったのであろうと後悔したがもうその時は遅かった。ミュンヘン・ヒルトンHは、ミュンヘン市内ではおそらく一番の高級HoteLで、ホテルの隣接した広大な英国公園を見下ろせる一等地に立地していた。僕は、タクシーから降りるとバッゲイジを引きずりロビーのチェックインカウンターの方へ進もうとした。するとどうであろう、ロビーであの知原さんが忠さんと立ち話をしているではないか。僕は、その姿を見て、「知原さーーん。」というだけで何やら腰砕けしてしまった。すると知原さんは「おー、山崎君、到着したのか。」と僕の気持ちなんか全く頓着しない様子でいつもの明るい声が返ってきた。僕は少し口をとんがらせながら「知原さん、ヒースロー空港で、どれだけ知原さんをやきもきして待っていたか、探したか知ってますか。もう僕は、このまま日本へ戻れないのかと死にそうでしたよ。」と言うと、知原さんは「あっ、そうだったのゴメンゴメン。でも君はちゃんとここまで来たじゃん。」と全く気に留めてない様子であった。 英国公園山崎

一方、忠さんも少しばかり興奮気味であった。忠さんは研究者であり海外出張の経験は勿論何回かあったのであるが、ドイツは初めてであった。忠さんは、大学時代、ドイツ語会話のサークルに居てドイツ語がいくらか話すことができた。その経験からかドイツに一度行きたいと思っていたのであるが、そのチャンスはこの時まで無かったのである。今でこそ、欧州への海外旅行は手軽に誰でもいける時代であるが、当時は、まだはだ渡航旅費は高い時代であり、欧州へは会社の費用でしか行けない時代だったのである。

 僕は国際会議場になんとか独力で到着し、知原さん、忠さんとも合流でき一瞬の安堵は味わえたが、会議の第二日目に予定されていた自分の論文発表が終わるまではやはり緊張の連続であった。ホテルの部屋は、ヒルトンHはどこでもそうだが、キングベットが二つある超豪華な部屋であった。こんな大きな部屋に独りで泊まるのはもったいないな、と初めてのその経験にびっくりしていた。僕は到着した日曜日から、部屋に入ると食事の時間を除いて、一人部屋の中で声を上げながら発表原稿の練習をしていた。また、月曜日の早朝は隣にある広大な英国公園を一人で散歩しながらやはり声を上げて発表の練習をしていた。英会話がへたくそなのは元元であるが、少しでも上がることなく大過なくの発表の20分をやり遂げたい、恥もかきたくない、とそんな想いだけだった。 KDD野原大川

いよいよ月曜日から会議が始まり、関係顧客の人の発表がその第一日目にあったのを聴講した。僕と同じような年代の方で、さして英語のプレゼンも上手でなかったので少し安心したというか変な自信も出てきた。そして第二日目の会議がいよいよやってきた。発表会場は2つあり、僕の発表は200名くらい収容できる少し縦長のホールであった。聴講しているのは、世界の衛星通信業界の面々、即ち、AT&TやBTなど国際通信事業者の技術者、その関連の各国の通信メーカーのエンジニアであった。僕の発表するセッションは午後にスケジュールされており、同じ分野の発表題材で新しいデジタル通信装置開発の表題で、3人の発表が予定されていた。英国のDCCという会社のロバート、日本からは僕ともう一人、競合メーカーの人であった。そのセッションの座長から順々に紹介があり、ついに僕の番になった。僕は少し足を震わせながら登壇した。発表は、現在のような便利なパソコンのプレゼンテーションツールなんて無い時代であるので、カラースライドを準備していた。ジアゾ仕上げといって、スライドの背景が青色で字は白抜きのスライドであった。そのスライドを約20枚ほど準備していた。僕は壇上の演壇から聴衆を見下ろし少し足を震わせたが、一気に約20分間、予定していたスピーチの内容を話した。最初は緊張してたどたどしい英語でも話しているうちに慣れてくるもので開き直れるものなのである。さて、問題は、この発表の方ではなく、発表後の質疑応答時間の方であった。この時は、同じセッションでの発表者3人がまとめて登壇させられて、質疑があった。隣に日本の競合メーカーの人が居たのでなんとなく安心ができた。質問は、何個かあったと記憶しているが、3人に同じ質問が来たり、個別のメーカーにも来た。僕に対しての質問は応えられるものとそうでない物が確かあったが、なんとかその場をやり過ごすことができた。この質疑応答が終わり、ホントに「ほっ」としたのを覚えている。一挙に緊張感から抜け出ることができた。あとは、ドイツのミュンヘンを観光するだけだ、なんて気持ちになっていた。もちろん学会は、金曜日まで開催されていたがそこそこ適当に参加すればいいのである。 英国博物館前

こうして、ミュンヘンでの初めての学会発表はどたばたのうちに、しかも緊張のうちに終了した。忠さんも、前半に発表を終え、彼も後半は市内観光だ、と張り切っていた。彼は、学生時代のサークルで身につけたドイツ語を試すために一人で汽車に乗ってザルツブルグまで行って帰ってきた。その他の面々は、関係顧客の人も含めて、仕掛け時計で有名な新市庁舎やビアホールの観光をした。ビアホールとはミュンヘンに来た人は必ず訪れるというホフブロイハウスである。また、会議の主催者が、市内にあるビール工場の大ホールであるレーベンブロイケラーへ会議参加者全員を招待してくれてBeerを振舞ってくれた。ここでは鞭を使った民族芸能も披露してくれた。 この時期は、丁度、ソ連のチェルノブイリで原発事故があった時期と重なり、死の灰がミュンヘンまで飛散してくるのではと皆はひやひやしていた。週末に、ミュンヘン郊外にある「ニンフェンブルク城」を観光した。とてつもない広大な欧州式の庭園をもつ城で僕はこの時初めて見たものでその巨大さに、欧州貴族の権勢の跡に感嘆したのであった。 こうして約一週間の初めての海外出張は終了した。帰りはやはりBAでロンドン・ヒースロー経由で帰った。ロンドンのケンジトンヒルトンHに一泊しその夜は、会社のロンドン駐在員に中華街でご馳走してもらったが、緊張が解けたせいか、または時差の影響か眠気に襲われ早々と引き上げた。次の日、忠さんと早朝に起床しロンドン市内観光に出かけた。ハイドパークを横切り、バッキンガム宮殿などを外から鑑賞した。忠さんもロンドンは初めてだったようで二人でその初めての景色に満喫していた。大英博物館も前まで行ったが、早すぎて開館していなかったので諦めて帰ってきた。あとどこに行ったかあまり記憶にない。 こうして、ロンドンのたった半日の市内観光も終えて、ようやくヒースロー空港から日本向けの便に乗り込んだ。機中に乗り込むと、この一週間の緊張と興奮で埋め尽くされた初めての海外出張を頭の中で反芻しながら、僕は座席で死んだように眠り込んでしまった。ああ、やっと日本へ帰れると。 (平成15年4月14日記)


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