学生生活の6年間、何人かの中学生高校生の家庭教師を行った。最初に家庭教師のアルバイトをやりだしたのは、大学1年生の夏休み明けだったと記憶している。工学部近くの下宿に転居してまもなく、地元新聞の募集コーナーに「家庭教師引き受けます。」という記事を掲載した。掲載は無料だった。地元の大学生の家庭教師は当時人気があった。学生時代にアルバイトは色々やったが、家庭教師がバイト代の割がよかった。週に2回、1回2時間で月に月謝が1万円ってところが当時の相場だった。その記事を掲載するとたちまち何件かの応募の電話があった。全部引き受けることはとてもできなかったので、下宿先からの交通の便のよさから判断して最初に引き受けた生徒が当時中学校2年生の「フミちゃん」という女の子だった。以後の家庭教師はすべてこのフミちゃんが発端だった。駅から近い一戸建ての家で、お父さんは会社勤めのごく普通のサラリーマン家庭だった。
このフミちゃんの最初の家庭教師の授業のときは印象的に記憶している。フミちゃんに会うと、目の大きな可愛い女の子だった。少し長めの髪は後ろで2箇所をくくっていた。初対面の場でいきなり「先生」というものだから面食らった。そうか家庭教師でも一応「先生」と呼んでくれるんだ、と少し良い気分になった。数学と英語を中心に教えることになった。特に数学が苦手ということだった。教え方はいたって簡単。学校の授業の復習を中心に問題集を教材にした。2,3の例題で基本的な考え方、問題の解き方、ルール、手順を教えてあとは類似問題をやらせる、というパターンの教え方であった。今でも数学と英語に関して中学生程度の家庭教師には十分やれる自信があるが、フミちゃんからも「先生は教え方が上手い。本当の『先生』になった方が良い。」と言われていた。当時は大学に入ってまだ間もないいわば学業の現役であるので当然のことであった。
さて、暫くしてフミちゃん家の近所の同級生が一緒に教えて欲しいとやってきた。こちらとしては、同じ時間内で二人を面倒見ることになった。月謝を倍額頂戴するわけにはいかなかったので少し割り引いていただいたが勿論合わせると一.五人分以上となった。さて、この中学校2年の多感な年代の二人の女の子を相手にして家庭教師をするのはとても楽しいことであった。学校での出来事や異性の話など、このアルバイトの時間を退屈することはなかった。中でも一番最初にびっくりしたのは、金沢弁だった。「金沢は北陸の小京都」とか言って、なんとなく上品なイメージがあるが、この地の言葉(金沢弁)に関しては、全くそのイメージとは『逆』であった。とにかく、聞く側にとって汚い言葉なのである。
フミちゃんとその同級生の二人は、おしゃべりなのは年頃の娘であるから仕方が無いとしても、早口でその本家本元の汚い金沢弁を使って僕の前でまくし立てるものだから、僕は最初の日、目を丸くしてしまった。「・・・だから・・・じー」「おいてー・・・行くぎゃあろ、・・・しまっし。」「・・・が?」「・・・け?」「そんなダラみたいなこと言って、ダラぶちがあー」「ダラけー」「ダラー。」とまあこんあ具合である。自分の出身地の滋賀は、完全に文化としては京都圏である。したがって、言葉も京言葉の流れを汲んでいる。勿論、地元特有の言葉もある。だが総じて柔らかい京言葉の範疇に入っている。その「柔らかい文化」の自分が、この地元バリバリの金沢弁丸出しの二人の女の子の谷間に入ってしまって口があんぐりしてしまった。とにかく金沢弁は濁音が多いのである。それによって全体の会話が汚く聞こえてしまう。僕が口があんぐりして二人の会話を聞いていると、フミちゃんの少しふっくらしたお母さんが二階の部屋にお茶を持ってきて申し訳なさそうに「先生、あきれるでしょう。どうしようもないんだからこの娘たちは。」と僕に同情してくれたが、よく聞いてみるとそのお母さんも金沢弁だった。先に示した「だら」「ダラ」という言葉は、東京での「馬鹿」、大阪での「アホ」に相当する言葉で、やたらめったら会話の中にこの「だら」が入ってくる。「ダーラ」「ダラみたい。」「ダラやな」「ダラぶちが」などと言う。アホとか馬鹿は殆ど用いないのである。僕は、金沢弁に関してはフミちゃんとその同級生にかなり教えてもらった。これに関しては彼女たちが「先生」だったのである。
フミちゃんには、高校受験までの約束でずっと教え続けた。フミちゃんは、その中学校の学年では中の上といった成績だった。僕が教えることによって特に成績が向上することはなかったが結局は志望の高校になんとか入学を果たした。これでお役御免だなと思っていたら、高校に入ってからも週一回でいいから数学を続けて教えて欲しいとの要請があり継続した。結局、このフミちゃんとの家庭教師関係は僕が大学院に入るまで継続していた。高校を卒業して短大に進学しても短大の数学が分からんと、大学院の研究室まで押しかけてきたこともあったのは少し閉口したが、すべて懐かしい思い出である。
時間が前後するが、フミちゃんが目出度く志望の高校に合格すると、その春から同じ町内の新しい家庭教師先を紹介してくれた。こちらが頼んだのではなく、先方から依頼が来たのだ。「アキちゃん」というやはり中学校2年の女の子だった。家は、お父さんが新聞社に勤務する普通のサラリーマンだったが、お母さんは商売のやり手と見えて、自宅から少し離れた商店街で化粧品店を経営していた。両親二人で稼いでいるせいか、裕福そうな三階建ての家だった。車も高級車の117クーペを乗り回していた。商売柄か、すらっとした美人のお母さんであったが、僕が訪問する夜の7時にはまだ帰宅していないことが多かった。このアキちゃんも最初の半年ほどは同級生の女の子が一緒に来ていた。アキちゃんも何とか私学の高校に合格していた。公立高校か私立かどちらでも良いと言っていたので、このアキちゃんにも一応僕の務めは果たしたことになる。
高校になっても続けて教えて欲しいと頼まれ、僕が大学院に入学するまで教え続けた。両親が居ない留守宅の3階の勉強部屋で二人だけで気ままにおしゃべりしながら勉強を教えた。アキちゃんが高校1年か2年だったと記憶しているが、いつもの決められた時間に訪問しても返事が無いのでそのまますたすたと3階の勉強部屋まで昇って行くとアキちゃんはベットにもぐっていた。いたずらっぽい目をしてその時は突然だったので僕の方がドギマギしてしまってその場をやり過ごしたが今から考えると少し惜しいことをしたなと後悔している。アキちゃんとは、家庭教師と生徒の関係が終わっても毎年の年賀状のやりとりだけは今でも継続している。大学院を修了し電機メーカーに入社して間もなく、アキちゃんのお父さんが急病で亡くなったという連絡を手紙で知った。おそらく50歳前後の歳だったと思うが、何回か挨拶を交わした程度であまりお顔の記憶もない。新聞社の激務によって命をすり減らしていたのかも知れない。アキちゃんは、現在は同じ市内で伴侶を得て二人の男の子とともに幸福な結婚生活を送っている
このフミちゃんとアキちゃんの他に、僕の家庭教師の生徒がもう一人、同じ町内に居た。フミちゃんを教えている頃、彼女のお母さんから「近所に小学校低学年の男の子が居る。井戸端会議で先生のことが話題になってその男の子のお母さんから夏休みの間だけでいいから、家庭教師をして欲しいと頼まれた。」と頼まれた。僕は、小学校の低学年児童にまず家庭教師が必要なのか?という疑問を持ちながら、まあ夏休み中はこちらも暇でもあるし週一回だけその家を訪問することにした。フミちゃんの家から徒歩で5分ほど離れたところにある新築一戸建てを訪問すると、まず、その低学年の男の子の名前の表札が玄関に掲げていたのが目に入りまず驚いた。本人は小学校1年か2年だったと記憶している。お母さんは、少し小柄だが、トランジスターグラマー的な魅力的な女性であった。夏休みの宿題勉強も少し教えたが、半分は子守のような家庭教師の仕事だった。その間、その男の子が興味を引くようなことを相手してやった。夏休みの宿題として一緒に工作をしようと提案して、その材料を街中に一緒に買い物に行き材料を求めて、家で工作をしてやった。あまり明確には記憶していないが、「タワー」を一緒に作ってあげたように記憶している。造り方の手順を教えるとその時はその男の子は目を輝かしてそのタワーの完成まで取り組んでいた。お母さんもそれを見て感激していた。何日か後、その男子の家を訪問すると、玄関先の土間に男性の大きな靴が脱いであった。お母さんは僕にお茶を出すと二階に上がったままだった。誰かお客さんが来ているのかな、と思いながら僕はいつものようにその男の子の相手をしていた。僕が帰る時間になってもそのお母さんは二階から降りては来なかったので僕は男の子にだけ挨拶して帰宅した。そんな妙なことがあった。
夏休み明けに再びフミちゃん宅の家庭教師が定期的に始まり、フミちゃんのお母さんと夏休み中のその近所の男の子の家庭教師の話に及んだ。まず、その男の子のお母さんが僕のことをたいへん感謝していたことを聞いた。フミちゃんのお母さんから、その男の子とそのお母さんの身の上を聞かされた。要は、その男の子のお母さんはいわゆる「内妻」であったのだ。それを聞いて、玄関の男の子の表札の意味と、時々二階に来ていたと思われるその大きな靴の男性の謎がやっと分かったのである。夏休み期間中に僕に家庭教師を頼んだは、その男性との逢瀬の時間を増やしたかったのかどうかまでは分からなかったが。夏休みのほんの少しの間ではあったが、その男の子の気持ちの中に工作とともに僕のことを覚えていてくれれば、とその時は願っていたものである。
さて、その他の家庭教師先はどういう経緯だったかは記憶が薄れてしまったが、少し市街地から北東に離れた場所にの醤油屋の息子、コウジ君も教えていた。これも高校受験合格を目指して中二から教えた。老舗の結構大きな醤油醸造家でこれも裕福そうな家だった。このコウジくんは、大人しい性格であまり冗談も自分からは言えないような性格だった。こちらばっかり話している感じであった。思い出すのは、コウジ君は、その頃、森昌子の熱狂的ファンだったことだ。他の歌手の方がかわいいのでは?と僕が言うと、森昌子は歌が上手いからと言っていた。このコウジ君の家庭教師で助かったのは、家庭教師の授業2時間中に必ず夕食を出してくれたことだ。こちらは、貧乏な学生生活である。夕食にありつけることはとても助かった。それも、2時間のなかで2回も食事を運んでくれた。家庭教師を始めて30分も経つとお母さんがうどんなどを運んで来て耕治君と一緒に食べた。そしてまた一時間ほどすると、別メニューの食事を運んできた。二時間の間に2回も運ばれる食事は、その間、勉強は中断しなければならないので実質1時間ほどしか教えていない感じであった。勉強を教えに行っているというよりは、夕食を食べるために通っている感じであった。このコウジ君の家庭教師は、最後の高校受験結果を見届ける前に、同じ下宿の同級学生にそのアルバイトを譲った。
家庭教師を頼む両親のほうは。自分の子供の成績がもうひとつ伸び悩んでいるため高校受験への不安から家庭教師を頼むのであろうが、こちらの教える側の負担としては、そこそこ中程度の成績の生徒でないと教える作業の負担は大である。今数えると学生の期間で計9人の中学生を教えたことになるが総じて教えた生徒は中か中の上以上の学力であったので教えてる作業そのものに大した負担が無かった。ところが一人だけであるが、超低学力な中学生の男の子を受けもったことがあった。どういう経緯で頼まれたかは忘れてしまったが、確か大学4年のときだったと記憶している。市外から離れた郊外の家でお父さんはタクシーの運転手をされていた。ごく普通の家であった。その男の子は中学校3年生で後3ヶ月程で高校受験という時期だった。名前を忘れたのでこの中学三年の男子の名前をツッパリ君とここでは命名しておこう。
このツッパリ君は初めて会った時、いわゆる落ちこぼれの不良学生であることが直ぐに分かった。その学生服姿の様子をみれば一目瞭然であった。およそ勉強などをしていたとは思えない。この様子を見て、僕はこの家庭教師の仕事は負担ばかり増えて、また高校受験にも失敗する可能性の高いのでお断りしようとした。が、両親は必死に懇願した。「ご両親は真剣でも、本人は本当に高校に進学したいのか甚だ疑問だ。」と僕は率直に言った。でもツッパリ君は「実を言うと高校進学するつもりではなかったが、友達仲間がやはり皆、進学するので自分も行きたくなった。どこの高校でも良いので行きたい。」と真剣に話した。僕はこの本人の言葉を100%信用できなかったが、本人の口から出た言葉と両親の懇願を聞いてそのアルバイトの引き受けることにした。ただし、高校受験合格は保証できないことを予め承知してもらった上で僕なりに最善は尽くす、と約束した。
受験までもう僅かな時間しかなかったので週三回訪問することにした。じっくり教えることはできないので受験想定問題を中心に実践対応の家庭教師を行った。が、やはりベースが無い人に教えるのは難しいことであった。小学生のレベルまで戻らなければならない局面もあった。あまりの低レベルなので僕の厳しい言葉にそのツッパリ君も目に涙を浮かべることもあった。学校では不良仲間と悪さばかりしていたのであろうが、僕の前ではツッパリ君はその間だけは、彼なりに一生懸命やっていたのは理解できた。顕著なレベルアップしたとは思えなかったが、僕は約束の高校受験時までそのアルバイトの仕事を全うした。このツッパリ君の家でも時々食事が出てきた。一度ツッパリ君のお父さんがタクシーの仕事で能登半島まで行ったので生牡蠣を買ってきたとご馳走になったことがある。冬の能登の生牡蠣を食べたのはこの時が初めてであったが、生牡蠣がこんなに美味しいものとはその時まで知らなかった。
さてツッパリ君は、結局、県立高校の比較的不人気な学科を受験した。いわゆる倍率が低いところを狙ったのであったが、それでも中学校の進路指導の先生からは「合格は難しい」と言われていたらしかった。僕は、そのツッパリ君の家庭教師を全うして一応さっぱりした気持ちで居た。県立高校受験の合格発表の日であったこともすっかり忘れていたその当日、突然下宿に電話が掛かり、ツッパリ君の両親から歓喜の声が聞こえてきた。見事合格したのだそうだ。とても無理だろうと思っていたのでその時は同じように電話口で喜んだ。一時間もしないうちに、そのツッパリ君の両親が本人と共に車に乗って僕の下宿に訪ねてきた。その喜びと御礼を伝えるのはまず僕へと思ったのであろう。更に通常のアルバイトの月謝とは別に御礼の金一封も持参してきた。余程、嬉しかったのであろう。落ちこぼれのツッパリ息子を持った両親は、そう大したレベルでもない高校であったとしても、こんなに素直に大喜びする姿を眼前に見せ付けられて、「親の気持ちってこんなものなのかなあ」と改めて感慨に耽ったものだった。僕の家庭教師の効力が実際にどれくらい有ったのかは分からないが、学生時代に教えた9人の教え子の中で、高校受験合格を最も喜んでくれたのは文句なしにこのツッパリ君とその両親であったことには間違いない。
最後に大学院2年間在籍期間中に最後に教えたK家兄弟のことを記述する。どこからどういう縁だったかは忘れたが、市街から少し離れた西の方にあったこのK家へ週二回家庭教師を行った。教えたのは中三と中二の元気な兄弟であったが、5つくらい歳が下のもう一人の男の子も居る三兄弟だった。お父さんは地元の商工会関係の役員を務める裕福な家であった。如何にも重役という感じのお父さんでどっしりしていた。一方、お母さんは、良妻賢母という感じのお母さんであった。教えた長兄は中三で一年後の受験を控えていたが、成績は中程度であった。弟くんは、とびきりに近いくらい成績優秀であり、本当はこの次男坊には家庭教師など必要はなかった。おそらく、両親としては長兄をなんとかして欲しかったのであろうが、ついでということか、兄弟への親の公平さを保つためか、二人の兄弟に家庭教師をつけたということだったと思われる。お陰で僕のアルバイト代としては助かった。月謝も二人分をしっかりくれた。
家庭教師の授業が終わると必ずと言っていいほど、夕飯と晩酌をご馳走になった。結構ですと遠慮しても、そのお父さんは晩酌の相手をしてくれと僕を引き止めた。一度、このお酒で、僕は失敗をしたことがある。あまりにもお父さんの勧めでウイスキーを飲みすぎて、悪酔いをしてしまったのだ。前後不覚で反吐を吐いてきれいな家を汚してしまったのだ。その晩は家に泊めてもらい朝帰りしたことがある。この時、そのお母さんは、僕の気持ちを気遣ってくれて、二人の息子にはこのことは内緒になっているから安心してください、と言った。そんなこんなで2年間家族ぐるみでK家は僕のことを大事に扱ってくれた。お父さんは、「北陸の親父」だと思ってくれと言ってくれた。
K家は熱狂的な阪神タイガースのファンであった。家庭教師の授業が終わると広い一階のリビングのTVで当時も負け続けていた弱い阪神を全員で応援していた。僕も時々その3兄弟の遊び相手を軍人将棋などでしてやった。3人の元気一杯の男の子の家庭はこんなに明るいものかと、僕はこのK家の様子を感心して眺めていた。お母さんはやんちゃな男の子ばかりでたいへんだったとは思うが、賢母ぶりを発揮していた。お酒の席でそのお父さんは僕の前でそのお母さんのことを褒めちぎることに憚らなかった。そのお母さんは、大した家柄でも学歴も優秀なわけでは無かったそうだが、苦労している姿を見つけて、自分の妻として相応しい人だと考え結婚した、と回顧していたのを思い出す。「嫁は庭から貰え」の典型だったのかもしれない。K家の家庭教師が1年経過し、結局、その長兄は私立高校に入学した。第一志望の県立高校は不合格だったのであるが、両親も本人もその結果は当然という雰囲気だった。長兄が高校入学しても続けて家庭教師を継続して欲しいとのことであったので残りの1年も継続して二人を教えた。結局、その弟は、市内のトップレベルの高校に入学し、後にW大学に入学した。彼の実力からすれば当然の結果だった。
さて、この想い出深いK家の2年間アルバイトも大学院の修了とともに終えることになった。電機メーカーへの就職が決まったことについてもK家は自分のことのように喜んでくれた。大学院を修了しこの北陸の古都から離れる直前、お父さんが、就職祝いを兼ねて、市内の御茶屋でご馳走をしてくれた。この席で、2年間お世話になったことをこちらからも礼を述べた。事実、このK家のアルバイトのお陰で大学院生活を自立生活できたに等しかった。この御茶屋での席でそのお父さんは僕に対し「就職されたら、約10年間はとにかくがむしゃらに仕事をしなさい。そうすれば、その後は、その余禄で食っていけるものです。」と忠告してくれた。社会人になる直前の僕への餞の言葉だったに違いない。その後電機メーカーに入社して12年間、僕はがむしゃらに仕事をした。その後転職して現在にいたっているが、振り返ってみるとこの時のお父さんの餞の言葉は、「確かにそうだったな」と思い返すこの頃である。今もその余禄で生かされているのかも知れない。
学生生活6年間の家庭教師の教え子のことを記述したが、今でもK家とアキちゃんは年賀状だけの連絡は絶えていない。当時、僕は家庭教師の立場であったが、現在の年齢は、あの時の教え子達の親の年代になっている。フミちゃん、その一歳下だったアキちゃんも、四十台半ばとなり、きっと自分の息子や娘に対してあの当時の親と同じような気持ちで自分の子供たちに接しているに違いない。自分の当時の学業成績のことなどはすっかり棚に上げて、鬼のような教育ママと化しているかもしれない。 (平成15年3月9日記)