◆「松茸山とプロパンガス」◆


秋の季節になると思い出す。「松茸」。食欲の秋の代名詞となっていた時期もあるが、昨今では高値となり過ぎて庶民の食卓にはほとんど登らなくなってしまった。小学生のころ、故郷の山里の実家では、松茸はごく身近な存在であった。屋敷の裏山や、村の奥にあったお寺が管轄する寺山から、秋の味覚である松茸を採ってくることは秋の日常行事だったのである。農家の家計収入はお米の出荷収入でその大部分が成り立っていた。春から秋にかけての一年がかりの作業でやっと手にする米の収入である。そんな農家にとって、松茸の収穫による臨時収入は昔から有り難いものだったそうである。秋になると松茸の収穫農家へ仲買人が現れ、即現金払いで買い取りに来ていたものだ。私の実家もそんな農家の一つだった。

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その時期になると玄関の土間に敷いた筵一面の上に収穫された松茸が広げられて、母屋の家中に松茸の香りが充満していた。「香り松茸、味シメジ」との言葉がある通り、松茸は香りを楽しむものだそうだが、大量の松茸の香りは楽しむどころか、強烈な刺激臭でしかなかったように記憶する。子供の私にとっては、松茸料理はそれほど美味しいものの範疇には入っていなかった。もちろんその料理方法にもよるのだろうが、父も母も家族の皆にとって、身近なものであり過ぎてそんな感覚をもっていたものだ。単に季節感を味わうためのものだったのかもしれない。高級料亭で有り難く、食することが多いので実際の実力よりもその造り上げられた高級感にオフセットされ過ぎているようにも思える。

松茸の思い出として記憶に残るのは、松茸狩り。秋のその時期になると都会に嫁いだ姉の親戚を田舎の実家へ招待して松茸狩りを行ったことなどがあった。山中で松茸を見つけることはかなり難しい作業である。松茸がアカマツの松林の中に現れる場所、その松林の地下に形成される「シロ」の領域を手掛かりにすればよいと言われる。シロには松茸の菌糸体が発達しているのだそうだ。したがって、昨年までに松茸を見つけた場所には、今年もまた生えてくる可能性が高いそうだ。松茸狩りの名人と言われている人はそのシロの場所を経験的に知っている人であろう。松葉に覆われた地面の下から出てくるわけであるので、人に目に触れることがそもそも稀である。そんな偶然一致とも言えそうな瞬間を経験し、松茸を見つけた時は歓喜にあふれるのである。私もそんな瞬間を経験したことが1,2度あった。

さて、そんな楽しい思い出であった松茸狩りであるが、松茸そのものが、全国的にほぼ同時に収量が減ってしまったのは何故だろう。アカマツ林に変化が起きたからであろうか。気候にデリケートに反応することは昔からよく言われていた。「今年は雨が多いから松茸が豊作だろう」とか。「いやいや、猛暑の夏の年こそたくさん生えてくる。」とか、その昔から先祖から伝えられた諸説が多くあり、不作の年と豊作の年が繰り返されてきたのであるが、昨今のようにさっぱり出なくなってしまったのは何故だろう。全国のあちこちで、不作だ豊作だと言いながらもそれなりに収穫されていた松茸がほぼ同時に全国的に獲れなくなってしまった原因はどこにあるのであろう、と。自分自身にも身近な存在であった松茸が自分の視界から消えていったことの原因探りの話をその当時から折につけ周辺の人間に問いかけていた。そんな折1980年頃、その疑問に答える一つの新聞記事を手渡された。

その記事には「松茸の収量減少の原因は、プロパンガスにあるかもしれない。」と、とある大学教授の学説が載せられていた。その説はこうである。松茸の収量減少傾向のグラフ曲線と全国的なプロパンガスの普及傾向グラフに因果関係がある。と言うのである。言い換えれば、プロパンガスの全国的な普及によって松茸の収穫量が年々下がっていった、と言うのである。どこまでが、学説だったか明確に記憶にないが、その記事を読んだとき、この先生の説には一理あると私は感じた。というのは、自分の小学校時代から中学校時代の経験と照らし合わせると、その説の裏付けとなる事実がいくつか有ったからである。

私の小学生の低学年の頃、全国の大部分の農家の「燃料」は、「柴や割り木」であったはずだ。全国の山里農家はほぼ同じような生活をしていたと想像するが、それまでずっと戦前、大正、明治時代どころか、江戸時代、その前にまで遡ったとしても、その家々のエネルギー燃料は、柴や割り木に頼っていた生活が続いていたはず。風呂炊き、日々の炊事のみでなく、冬場の暖房燃料は炭でありその原料は木である。即ち、この燃料の柴、木は、私の実家のような山里農家は「山」そのものが、生活に場の一部であり、柴や木を採取し、生活の「燃料」とする作業を毎日、忙しく行わなければならなかったのである。田圃や畑と同様に裏山が、生活の場であったのである。田圃や畑に出かける頻度と同様に、裏山に出かけて、柴を刈り、間伐を行い、年中の生活のための燃料の採取のために忙しくしていた。また、風呂や竈の焚付け材料とするために、木の葉がきを頻繁に行っていたため、里山の地肌は結構きれいに掃除されてもいたのである。私も幼いころは、父母が田畑の農作業の合間にかなりの頻度で裏山などに出かけて作業を行っていたと記憶する。そんな農家の日々の生活スタイル、特にこの山から求めていた農家の「燃料」に劇的な変化を生じさせたのが、「プロパンガス」である。

1960年代〜70年代前後くらいから、次第に、しかも全国的にプロパンガスが普及したはずだ。私の実家にもその頃、農協から配備されてきたそうだ。このプロパンガスの普及は、農家にも燃料革命をもたらした。炊事やお風呂の燃料としてプロパンガスは、都会生活と変わらない「文化的」生活スタイルを持たらしてくれたのだ。この普及により、直接的な「燃料」変化のみならず、山里農家にとっての日々の生活の場に大きな変化が起きたのだ。それまでは普通の生活圏内に「裏山」が存在していたが、プロパンガス普及によって、何百年間もお世話になってきた、柴、割木、落ち葉、また炭さえも必要なくなってしまったのである。これにより、山里農家の人々は山という場を生活圏内に入れる必要性が少なくなり、必然的に山に入る頻度は激減していったのである。この山に入る頻度減少により、山肌はその昔と比べると変化した。間伐や下草刈り、柴刈り、はたまた木の葉かきなどの作業で人が山に入ることが少なくなり、その変化が松茸収穫量の激減につながったのではなかろうかと密かに私は信じているのである。松茸狩りの頻度そのものは、燃料変化によって変わらなかったかもしれないが、人が山に入ることによる、何らかの媒介物の変化が松茸の生育に影響を与えたのでなかろうか。

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それを裏付る事実を私は知っている。隣村の幼友達のY君家のおばあさんは、そのプロパンガスが普及した時代になっても、自分の山へ行き、山仕事をせっせと行っていた。おそらくそのおばあさんは、必要というより、健康維持の為に柴刈りをし、木の葉がきをせっせと行っていたのかもしれないが、そのおばあさんの山だけは隣家の山々と違って山肌が整っていた。それによってか、周辺では「松茸が出なくなった、出なくなった」と言われていた時でも、そのおばあさんの山だけにはそれなりに松茸の収穫が続いたのである。 

何百年も続いた日本の山里の生活には、「裏山」は必須の生活圏であった。科学的な因果関係を説明ができないが、山に人が入ることにより、なんらかの媒介作用で、松茸の育成にも効果がもたらされていたのかもしれない。 自然を原料として人々の生活が成り立ち、その循環サイクルはそれなりに幸せなものであったはずである。プロパンガスだけではないが化石燃料の普及により、戦後の日本人の生活は全国的に激変し、その便利さに歓喜した。しかし、松茸の収量激減に象徴されるように、何百年もそれまで営々と築かれてきていた、自然に溶け込んだ日本人の自然循環型の生活スタイルを失ってしまったことがこの先に何をもたらすのであろうか、と少々不安な気持でもある。■(平成27年9月12日記)


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