母の実家があった隣村に祖母が住んでいた頃、時々遊びに行ったことがあった。自転車に乗れば15分程度の距離であった。狭隘な谷間にあったその村の坂道を登り詰めたところにあった祖母の家に着くと祖母は私を「歓待」してくれた。末っ子であった私が物心をつく歳になったころの祖母はかなりの高齢になっていたが祖母は私が着くたびに台所の水屋の奥から、とっておきのお菓子を提供してくれたものだ。そんな祖母の私へのもてなしの種類の中に「あられ」があった。1cm角くらいだったろうか、本来の餅の色である白だけでなく、色粉で染めた赤と緑のお餅の角切りがその「あられ」の材料だ。その材料を、両側から挟んだ網状の「あられ煎り器」に入れて、火鉢に熾した炭火の上で、そのあられ材料を煎るのだ。火鉢の炭火の上で、そのあられ煎り器の網の中であられの材料をころころと転がしながら暫くの間、煎っていると、その材料はほのかな良い匂いを放ちながら、立方体のあられが徐々に膨らんで丸みを帯びてくる。そのあられの膨らむ、不思議な様子を火鉢の傍らで私はじっと眺めていたものだ。祖母が仕上げてくれた、その熱々の三色あられを頬張るとサクサクした感触と微かな甘みがあってとても美味しく感じられた。
今ではお正月にのみ、餅を食する機会が有るが、私の幼い頃の冬場のご馳走は「餅」であった。もちろん農家であったからであろうが、餅はとても身近な食物であった。毎年、正月前の年末になると、「餅搗き」行事があった。、九(苦)餅は避けるべきということで、29日の餅つきは避けて、その前後の日が年末恒例の餅つき行事日であった。その時期になると近所からも餅つきの音が聞こえてきた。正月の神棚お供え用の「鏡餅」用にその餅つきを行うのがその行事の最大の目的であった。行事というのは大げさのように聞こえるが、実際に餅つきの行事は一日仕事になるほど大変な作業であった。
蔵から、重い臼と杵を出してきて、母屋の土間に備え、母が前日から、もち米の準備を行い、当日は竈の火をつかって、朝からもち米の入った蒸籠を重ねて蒸し上げるのである。一臼だけの餅つきなら大した作業でないのであるが、幾臼もつくので、もち米が蒸し上がるタイミングに合わせて行う餅つき作業は年末の「重労働」なのだ。重い杵を持ち、餅搗きを行うのは男の仕事で父が担当し、臼の中の餅を手返しするのは女の仕事であり、この仕事は母が行っていた。
私もこの年末の恒例行事の餅つき作業を父に代わって、杵を初めて持ったのは中学生になった以降であったろうか。杵は、ずっしりと重い。この杵を使って、ぺったん、ぺったんと音を立てて搗く前に、蒸しあがったもち米を臼の中で、よく丹念に捏ね回す作業が必要であった。暫く捏ね回していると蒸したもち米の粒粒がつぶれて粘り気が出てくる。それまで丹念に捏ね回す。この作業は、杵を振りかざして搗く作業と違う、腕力と少しばかりのコツが要る。やがて捏ね繰り回したもち米が少し潰れた状態から、いよいよ餅搗き作業である。重い杵を頭の上まで振りかざし、勢いつけて臼の中心のもち米の塊をめがけて、ぺったん、ぺったんと搗くのある。一臼の餅を搗きあがるまでに何回も何回もその重い杵を振り下ろす。この作業は簡単のように見えるが、そうでもない。私が初めてこの作業を担ったときに、父が「杵を振り下ろした時、鍬を振りかざすように引くのでなく、臼の中で前に突くようにしなさい。」と言われたものだ。その突く作業と杵を持ちあげるのにとても力が要る。やがて、あのすべすべした、真っ白い「餅」が搗きあがると、米粉をふった餅台の上で父が大きな鏡餅の形に手早く仕上げていった。
鏡餅用の餅つき作業を終えると、お雑煮用の丸餅や、のし餅や、「あられ」用の餅などのために、その後も何臼もその餅つき作業を繰り返し行った。 一日の餅つき作業が終わると搗きあがった餅が座敷に並べられていた。今から振り返ると、よくそんなに食べられたものだと思うが、その時代は「餅」は農家のご馳走であり、神聖なる食物だったのである。
年末恒例の餅つき作業の他に、「臨時に」餅つきを行うことがあった。祝い事には「餅」が付き物であった。親戚、身内などの祝い事があると、餅つきを行っていた。子供が生まれると持参するのはお酒と「はらわた餅」とか言っては、餅を持参するのである。「酒」も「餅」も重い祝いの品である。祝いに持参することもたいへんな作業であったが、これが「定番」だったのである。
いまでは、「電動餅つき機」の登場で、重い杵と臼を使った、餅つき作業を夫婦二人の恒例作業として行っている家は、農家でも稀かもしれない。しかし、生前の父がよく言っていた、「杵と臼で搗いた餅は、やはり格別の味だ。」という言葉は今でも私の耳に残ってる。正月の雑煮餅を食するとき、いつもこの言葉を思い起こすのである。 (平成28年12月31日記)