◆「ワシントンDCのフランス語」◆


 ドイツ、オーストラリア、マレーシアに続いて、四番目に海外出張した国は、アメリカ合衆国である。1月だった。行先はワシントンDC。それまでの開発が一段落して丁度、次の新しい通信システムの開発に取り組んでいたときだった。そんな折に、米国ワシントンDCに本部を置くインテルサット(国際衛星通信機構)事務所で、新通信方式のセミナーが開催されるというのだ。各国から国際通信キャリアが参加し、その国際通信キャリアに通信装置を納入する関連メーカーも参加することになっていた。このインテルサット本部のロビーで展示会とともに、ホールでセミナーを開催するイベントが企画されていた。M社もその新装置開発に名乗りを上げていたのでセミナーに参加することを表明した。それからが大変であった。1月末の冬真っ盛りの時期であり、何よりも自分にとっては初めてのアメリカ出張である。出発日が近づくにつれてまたまた緊張は高まっていった。仕事は大きく分けて二つあった。一つは、そのインテルサット本部で開催されるセミナーの会場で、新しく開発する装置について15分程度のプレゼンテーションを行うこと。そしてもう一つは、ホールの展示会場でブースを設置し、そのブースで新装置仕様の説明要員を行なうことであった。日本から行くのはただ一人である。その前の年までドイツ、オーストラリア、マレーシアへ出張経験はあったが、アメリカ合衆国への出張は初めてであり、その与えられた任務を上手く果たせるかどうか?という不安から緊張した。


鮎1

 15分間のプレゼンテーションのシナリオを作り、プレゼン用の原稿を作成した。その一枚一枚のスライドについて何を話すかの原稿を作成し、例によって殆ど丸暗記をした。2年前にドイツ、ミュンヘンでの論文発表と同じである。しかし何故かこの時は少し妙な開き直りの気持ちがあった。その発表の準備は、自分一人が恥をかけば済むことであったが、もう一つのミッションである、ブース展示の準備作業のほうがたいへんであった。小さなブースでも開設するとなるとそれなりに周到な準備が必要であった。自分一人では解らない事ばかりであった。そこで、上司がM商事のニュヨーク支店に助けを求めた。衛星通信関係のビジネスでは輸出関係でM社とM商事はタイアップしていたので一も二もなく引き受けてくれた。ワシントンDCでのインテルサット本部でのブース開設業者の手配をすべてやってくれたばかりでなく、セミナー期間中も現地に一人応援者を送り出してくれることになったのである。これで大分準備作業としては、楽になった。しかしまだまだ仕事は有った。まずブースに掲示するパネルを作る必要があった。静態展示用の装置はプロトタイプも何もまだ存在しなかった。したがってパネル展示でなんとか切り抜ける必要があった。急遽、パネル屋になんとか絵を描いてもらおうとしたが、そんな大きなパネルを作ってもハンドキャリーではヒコーキ内へ持ち込めるはずもなかった。そこで上司の発案で、掛け軸のようなパネルを作ることになった。掛け軸のようにくるくると巻き取れば、細長い棒のようにコンパクトに収まりヒコーキ内にも持ち込める恰好になった。その他に配布用パンフレットを大量に印刷してこれもハンドキャリーした。ずっしりと重量感があり、すこし厭な予感がした。


 さてその年1月後半、いよいよ出張の出発当日を迎えた。大阪伊丹国際空港から例によって出発した。パネル代わりの掛け軸展示物は軽くてよかったが、パンフレットが入ったスーツケースはずっしりと重いのである。上質の紙でしかも見開きの2つ折パンフレットだったので、500枚程度でもずっしりと来た。ただこの時のフライトはビジネスシートであったので特に手荷物の重量についてはカウンターでは文句を言われることはなかった。ワシントンDCまでは直行便ではなく、ニューヨークのケネディ空港経由だった。初めてのアメリカ出張であるので例によって緊張していた。出発前に上司から「ケネディ空港には、シロタクを装ったポンピキが多いので気付けろよ!」と注意されていた。その助言がどういう意味なのかもよくわからぬままに出発した。ニューヨークまでのフライトは、初めて乗るビジネスシートであったので快適だった。ゆったりとした席で、これなら寝られるな、と思っていたら、隣に座ってきたおっさんがいけなかった。何でもニューヨークと日本とをよく行き来しているブローカーのような仕事をしている人だったが、止めどもなく良くしゃべるのである。僕が初めてのアメリカ出張であると知るとあれやこれやと親切にもアドバイスをしてくれた。初めは有りがたい気持ちもあったが次第に面倒臭くなっていった。話しかけてくれる以上、受け答えもしなければならなかった。ようやく眠れたのは、もう直ぐニューヨークに到着する時刻であった。


 ニューヨークのケネディ空港に到着するとそこからがたいへんだった。ワシントンDC行きのパンナム航空に乗り変える必要があった。ケネディ空港の中で到着ターミナルからそのパンナムのターミナルへ移動する必要があった。始めてのターミナルである。伊丹空港みたいな小さな空港ではなかった。到着ターミナルをでると巡回バスがあるはずだ、ときょろきょろしていた。直ぐにはわからなかった。仕方ないので、ケネディ空港のマップを広げていた。そうすると男が近寄ってきて「何処へ行きたいんだ。」と英語で尋ねてきた。黒人である。「パンナムのターミナル。」と答えた。そうするとその男は「そのターミナルまで送ってやる。」と言った。その言葉を聞いて、「ああ、親切だな。」と一瞬その誘いに乗ろうとしたが、次の瞬間、上司の忠告を思い出した。「さては、これが上司が言っていたポンピキかも。」と思い返して「No Thank You!」とつっけんどんに答えて自分の重い荷物を引っ張りながら、そのパンナム航空ターミナルの方へ徒歩で歩いて行った。しばらくその男は僕を付け回していたが、つんとしていたら、諦めて離れていった。パンナム航空ターミナルは少し変わった恰好であった。パンナムのシンボルに似た建物であった。近くにあるようで空港の中を歩いてみると結構距離があった。しかも重い荷物を抱えていたので少し堪えた。パンナムのターミナルに着くと少しびっくりした。ワシントンDCまでのフライトはなんとプロペラ機であった。シャトル便と聞いていたので当然ジェット機と思ったがプロペラ機であった。乗り込むとニューヨークとワシントン・ナショナル空港間を約1時間のフライトとのことであった。


鮎2

 高度が低いので東海岸の風景が窓から見渡すことができた。やがてワシントン・ナショナル空港に到着するとまたまた驚いた。雪が少し積もっているのである。1月の末であるので不思議はないのかも知れないが、降っているはずないという固定観念が邪魔をした。タクシーで、「Capital HILTON HOTEL」と告げると飛行場から直ぐの距離であった。ホワイトハウスの正面から徒歩5分の距離にあった。到着時刻は昼過ぎの2時頃の変な時間であった。チェックインカウンターで名前を告げるとカード式のキーを渡してくれた。自分のその部屋まで行き、ドアにキーを挿しても反応せずドアは開かなかった。仕方ないのでまたカウンターまで戻りそのドアのトラブルを下手糞な英語で説明すると直ぐにわかってくれた。別のキーを用意してもらい係りの人と一緒に部屋に戻ると今度は素直にドアは開いた。部屋に入ると二度目のびっくり。ものすごい超豪華な部屋なのである。HILTONはまあ高級ホテルの部類なのかもしれないが、予想を遥かに超えていた。キングベットは二つあり、その他に豪華なソファーがある。とても一人で泊まるような部屋とは思えなかった。しばらくぼんやりとしていたらそのまま眠ってしまった。


 いくらか眠った後、電話のベルに起こされた。女性の声だった。少し甲高い明るい声だった。名前がよく聞き取れない。明日朝、僕の部屋に迎えにくる、とか言っていた。よく考えてみたら、この女性がブースの仕事を手伝ってくれるためにニューヨークのM商事支店から派遣されてきた社員だった。翌朝、挨拶を交わした。少し小柄で、僕よりはずっと年上に見えた。名前はRuz Suarez。コロンビア出身だという。勿論日本語は通じない。この女性と数日間、インテルサット本部でのセミナーイベントをやりこなさなければならなかった。少しだけ憂鬱になった。でも、このコロンビア人のおばちゃんのお陰で助かった。インテルサット本部へ行くと、ロビーでは各国から集まった業者がブースの設営に忙しく仕事をしていた。ブース業者への指示はすべてこのコロンビアのおばちゃんが滞りなくやってくれたので僕は出来上がるのをただ待っていればよかった。ハンドキャリーした掛け軸ポスターとパンフレットをセットして準備OKであった。あとは、型どおりの説明用文句をコロンビアおばちゃんに指示した。技術的な質問などが来たらすべて応対を僕に任せるように言った。


 僕にとってはそのブースの仕事よりは、セミナー会場での15分間のプレゼンテーションの方が心配であった。例によって丸暗記の英語は持参してきたが、最後の質疑応答の時間が気がかりであった。日本からは顧客であるK社から何人か来ていた。そしてM社の競合メーカーとなるN社もブースの出展と発表が予定されていた。また、O電気からも一人知人が参加していた。M社はO電気との間に新装置開発に関してパートナーシップを結んでいた。このO電気からの参加者は、かなり年配の次長さんであった。この次長さんには、このワシントンDCへ到着するまでに逸話があった。


鮎3

 さていよいよ発表の日になった。500名くらい収容されている大ホールでプレゼンである。ミュンヘンに続いて二回目なのでいくらか要領はわかっていたがやはり緊張。準備したスライドにしたがって兎に角、無我夢中で英語をしゃべった。僕の発表の前にプレゼンを行った外人はもちろん英語で話していたがいくらかあがっていた。外人でもあがるんだなあ、とこの時は少し変な安心をした。15分の英語でのプレゼンテーションは仏語、中国語、スペイン語に同時通訳されていたので、ヘッドホンでそれを聞くことができた。インテルサットは国際連合の下部機関なので、国際会議場では戦勝国の母国語には同時通訳される。下手糞な自分の英語でも同時通訳しているのを見て「僕の英語も通じているのかなあ」などと少し感慨に耽っていた。さて問題の質疑応答の時間。会場内のフランス人が一人すっくと立ち上がり質問をしてきた。英語ではなくフランス語である。僕は慌てて同時通訳のヘッドホンを耳につけて翻訳の英語を聞いたがよく質問の意味が解せなかった。最初の方は、僕のプレゼンの内容に対して褒めているようでもあった。途中から質問らしきことを言ったのは解ったのであるが通訳が早口すぎてわからなかった。僕は通訳者の方を向いて少し困った顔をしたら、会場の聴衆も一斉に通訳者の方を見ていた。僕は壇上で少し立ち往生したが何とかその場を収めるために「申し訳ないですが、質問がよくわかりません。後で個別にお答えします。」と英語で答えてなんとかその場はやり過ごした。プレゼンテーションが終了すると直ぐにコーヒーブレイクになった。ロビーに出ようとすると先ほど質問したフランス人が僕に近寄ってきた。するとどうだろう今度は流暢な英語で話しかけてきたのである。そして先ほどの質問を再度僕にした。今度は理解できたのでなんとかかんとかその質問に返答をした。僕はそのフランス人に、英語をしゃべれるんだから、先ほどの会場でも英語で質問してくれたらあの場でも答えられたのにー、と少し不足気味に言った。するとそのフランス人は「ああいう公式の場所で通訳も用意されている場合は、フランス語を使うんだよ。」よ平気な顔をして答えた。そういえば、フランス人は母国語に誇りをもっているので必ずそうすることを誰かに聞いたことあったのを思い出した。


 こうして、プレゼンテーションはなんとかんとか終了して後の仕事はブースに立って説明要員だけであった。時々ブースに来る訪問者にパンフレットを手渡し2、3の質問に答えるだけである。その質問も型どおりで終わるので予め用意した答えを下手糞な英語で説明すればもなんとか済んだ。  こうして、インテルサット本部で行なわれたセミナーは波乱万丈というほどではなかったが、その会期である一週間が過ぎていった。ブースの撤去手続きをしてくれたコロンビア人のおばちゃんRuzは、最後の日に夕食をご馳走してくれた。海側にあるシーフードレストランに僕を連れて行ってくれて、でっかいロブスターを頬張った。日本でも今はおなじみのレッドロブスターのあのでっかい海老と同じである。僕はこの時初めて見たこのロブスターを見てびっくりしたが、味は大味であった。醤油が必要であった。このオバちゃんの助けと最後の歓待が嬉しかった。もし彼女が助けてくれなったら、この一週間のセミナーは順調に行かなかっただろう、と容易に想像できた。


 オバちゃんが一日早くニューヨークに帰った次の日、O電気の次長さんが、ワシントンDC市内の日本料理屋に誘ってくれた。O電気は新装置開発でパートナーーシップを組んでるのでご馳走してくれたのかも知れない。O電気の次長は、初めての海外出張だったようで、色々と大変だった、と酒席で振り返った。ワシントンDCに到着するまでが大変だったそうだ。僕と同じようにニューヨークのケネディ空港を経由してワシントンDCまで来たのだが、少し違ったのはニューヨークで一泊。ニューヨークののケネディ空港に降り立ち、きょろきょろしていたら「タクシーか?」、と尋ねてくる男が近寄ってきたそうで、「そうだ」と答え、行き先ホテルを告げると、乗せて行ってくれたところまでは良かったが、法外なタクシー料金を取られたのだそうだ。ケネディ空港で僕も同じことに遭遇したが、O電気の次長の場合は、ニューヨークのタクシーのポンピキの手口に見事やられていたのであった。「まあ、無事にワシントンDCまで到着できたからそれだけで喜んだ方が良いかも。」とその次長に慰めてあげた。


 こうして、ワシントンDC滞在一週間の出張は過ぎていった。1月末であったことから、雪がいくらか積もった天候で、スミソニアンなどの博物館見学している時間はなかったが、コロンビアのオバちゃんが、半日だけつきあってくれて市内一周の観光バスに乗ってリンカーン記念堂などを観たのが唯一の観光であった。ワシントンDCにはその後、三回ほど海外出張で訪問した。初めてのワシントンDC訪問と時と違って、2回目以降の訪問は少し余裕があったので、スミソニアンのスペースミュージアムなどを見学してスケールの大きさにただただ驚嘆するのみであった。 (平成15年8月3日記)



TOPへ戻る→

●折々のエッセイ(バックナンバー)→