田舎の実家には「蔵」がある。幼い頃、いたずらなどしたときの父母からの叱責の言葉の一つに「蔵に入れてしまうよ。」というのがあった。この言葉が蔵に対する一種の畏怖の念を子供心に染み付かせていたかもしれない。土蔵は、窓なし倉庫であるため、中に閉じこめられたら真っ暗闇となり、声を出したとしても外には届かない。幼子に対する懲らしめの場所としては適当な場所であったのかしれない。
物心が付いた歳になってからこの蔵の中に入ることは、頻繁ではなかったが時々あった。 雑然とした中に餅つきの杵、臼、あまり頻繁には使わない炊事道具、家財道具、農具などが収められていた。一階の一番奥の部屋には、蔵の最も本質的な収納目的物である「米」を収める場所があった。一年間の農作業の成果物である玄米、また精米された飯米などが米櫃などとともに収まっていたように記憶する。 蔵の二階には、その家の先祖代々から伝わってきた家財、たとえば食器類、掛け軸など、今で言う「お宝」もいくらかあったように覚えている。
蔵の二階に、あまり見慣れない「箪笥(たんす)」「長持」などがあった。「これ何?」って幼い頃に母に尋ねたことがあった。母は「この家に嫁いできた私の嫁入り道具の箪笥」と教えてくれた。確かに、母屋の寝室にある箪笥と同色、同仕様をしていた。「整理ダンス」と「和ダンス」他のいわゆる嫁入り道具の箪笥セット一式の一つということだった。母にこの箪笥に対する質問をしたときに、この箪笥にまつわる話を聞かされた。
「どの親も同じかもしれないけど、娘のために嫁入り道具一式を拵えるために血のにじむような努力をして、やっとの思いでその準備をして、娘を嫁に出すもの。その親の思いが、この箪笥に込められ、染み付いているから、娘も嫁ぎ先で苦しいこと、辛いことがあったとしても、この箪笥の前では、我慢しなければ、という思いになるものなのよ。」というようなことを言っていたのを記憶する。確かにその後の田舎での生活の中で、近所の家々で娘が嫁に出る際に、嫁入り道具一式を準備するために、田んぼを売ったとか、一面の山の木を売却したとか、相当な苦労をしてやっとの思いで娘を嫁に出すための拵えを行った、との噂話を聞いたことがあった。どの家も同じような貧乏農家のこと相当の苦労があったのは間違いない。
名古屋付近から以西で特に盛んだったと思うが関西地方では、婚礼シーズンの春秋の大安吉日となると、華やかに荷飾りされた花嫁荷物を載せたトラックがあちこちで見られた。そのトラックを見る度に、母の昔の言葉を思い起こしていたものである。
幼い頃のそんな記憶を持ちながら自分自身の結婚の時に、荷宰領(にざいりょう)を仕立てられて目録とともに新居に運び込まれた花嫁荷物を受け取った夜、その真新しい箪笥たちを目の前にして幼い頃に染み付いた記憶を思い起こしながら一人で感慨に耽っていたものである。その後、この箪笥たちは転居などに伴って、関西と関東の間を少なくとも一往復半しているので約2000kmを旅したことなる。ここ25年はそれまでと違って、安定した落ち着き先を得ているこの箪笥たち、思いを注ぎ込んだ両親も、また本来の持ち主も居なくなってしまった今、長かった役目を果たし終えて何を思いながらまだ私に寄り添っているのだろうかと思うこの頃である。(令和元年11月22日記)
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